自分の人生を振り返ると、あっという間に、60歳になっていた、そんな感じです。

 

私は1956年(昭和31年)生まれです。2017年1月現在で60歳です。今年誕生日がくれば61歳に。

 

この60年の人生に何があったのでしょうか?

 

思い返せば、そこには、20代の後半で命がけの恋に破れ、30代の前半でうつ病で半年以上も入院し、40代の前半で癌に倒れ、20回以上も転職を繰り返し、借金にまみれ、自殺未遂と交通事故を含めて、4回ほど死にかけたことがありました。

 

今、生きている方が不思議です。でも、はっきり言えることは、死ななかったこと。

 

病気にせよ、事故にせよ、失業にせよ、私の命を完全に消し去ることはできませんでした。

 

運が良かったり、周囲の人たちに助けられたリして、その都度、立ち上がることができたのです。

 

勇ましい生き方はしてきませんでしたし、貧乏生活が長いのですが、憧憬であれ、夢想であれ、「ぼんやりとした希望」を抱きつつ生きてきた気はしています。

 

ロシアの文豪・トルストイの不朽の名作「アンナ・カレーニナ」に、以下の名言が出てきます。

 

幸福な家庭の顔はお互い似かよっているが、不幸な家庭の顔はどれもこれも違っている。

 

さすがはトルストイ。物の見事に人生の真実を言い当てていますね。

 

今ふっと思ったのは、人生の不幸とか、幸福とかについて、私はこれまで真剣に考えたことがあったのかということ……

 

 

私は世間なみの幸せからは、完全にはぐれてしまっているようです。では、これまでの私の人生は、不幸だったのでしょうか?

 

わかりません。ある時は不幸でもあり、ある時は幸福でもあったのでしょう。

 

ただ、もし不幸というものがあるとしたら、それはどういう状態なのかについて、今の私なら定義できます。

 

不幸とはお金を稼ぐためだけに、自分の人生という時間を浪費することである。

 

お金に振り回される時、人は不幸になるのだと思うのです。

 

贅沢ができないとか、欲しいものが変えないことを、不幸とは言えません。

 

納豆ご飯ばかり食べていても、私は不幸だとは感じない人間です。

 

ただ、お金のために自分の人生を犠牲にしなければいけない時、絶望的なまでの不幸を痛感します。

 

20代の頃を思い出すと、いろいろアルバイトをしましたが、どんなに汗水流しても、月に10万円を稼ぐのが精一杯だった、それが実感です。

 

政府や企業は、一般庶民はどんなに働いても、月に10万円くらいしか稼げないように国の仕組みを作っているのではないか、と疑っていたほどでした。

 

これからの人生、どれくらい生きられるかわかりませんが、お金に振り回される人生だけは懲り懲りです。

 

ですから、贅沢な暮らしをしたいためではなく、お金の心配をしないで済むように、60歳になっても仕事の量は減らしていません。

 

仕事をしないでのんびりしたいとは思わないのです。

 

ずっと働いていても、自分に合ったことなら、苦痛どころか、ささやかな歓びを覚えます。

 

青春期に夢見た、作家にもなっていなし、飛び抜けて優れた仕事ができているわけでもありません。

 

でも、まだ「ぼんやりとした希望」は消えていないのです。

 

生来の楽天家なのか、自殺とかは考えないし、派手な成功はできなくても、地道な工夫を続ければ、餓死はしないだろう、くらいには考えています。

 

不幸とはお金に振り回されて、自分の時間を犠牲にすることだと書きましたが、希望が完全に消え去ってしまう時こそ、人生の最大の不幸だと言えそうです。

 

人生に絶望はしていません。人間不信におちいっているわけでもないのです。

 

ただ、私の場合、その希望がはっきりとしておらず、あくまでも「ぼんやりとした希望」に過ぎません。

 

私の希望は○○である。私は人を信じ、自分の運命を信じているとは断言する勇気はないのです。

 

「幸せの青い鳥」はどこかにいるだろう、いつか人を完全に信じられる時がくるだろうと、ただ期待しているだけだとも言えるでしょう。

 

でも、へこたれませんよ。若い時のような爆発力はありませんが、粘って粘って粘りぬく覚悟だけは持っています。

 

遠くにかすかに揺れ瞬く灯火のようなものであっても、希望を失わず、その明かりを追い求めて続けていられれば、それは幸福な人生だと言えるのではないでしょうか。